はめまして!ふーじゃーです。
中学卒業後、15歳で単身中国の上海に留学。
その後、9年間、中国やオーストラリア、ニュージーランドに留学していました。
2019年に日本に再帰国し、現在は東京で働きながらブログやSNSで情報発信しています!
僕の夢は「社会に縛られ、自分らしく生きられずに葛藤している」人たちのロールモデルになることです。
僕の思った事や、やってきた事を自由気ままに綴っていくので是非見てください。
簡単なプロフィール
・1〜15歳:中学生まで香川県で、ごく普通な学生として過ごす。
・15〜23歳:中学卒業と同時に中国(上海)🇨🇳に単身留学。(高校&大学 約7.5年間)
当時(2011年)、尖閣諸島問題で日中関係が過去数十年間の間で最悪になり、周りから大反対されたが上海留学を決断。当時15歳、知っている中国語は「谢谢」だけだった僕が一人で上海に留学。
その後7.5年間、上海で過ごし、現地の高校、大学(上海交通大学 ← 中国で3番目に頭のいい大学)を無事卒業。
・17歳の夏休みに2ヶ月間、オーストラリア(パース)🇦🇺にも留学。
・23〜24歳:大学卒業後、卒業式にも参加せず、中央アジア(ウズベキスタン🇺🇿、キルギス🇰🇬、カザフスタン🇰🇿、タジキスタン🇹🇯)を1ヶ月間バックパック。
・23〜24歳:中央アジアバックパック後、ニュージーランド(オークランド)🇳🇿に約1年留学。
・24歳〜:ニュージーランドから帰国後、東京のIT企業に勤務しながら、TOKYO DIVERSITY CLUB(日本人と外国人の交流がメイン)というコミュニティを運営中。
またブログやSNSを通して情報発信もしています。←今ここ
twitter : @fujia_nz
instagram : https://www.instagram.com/kaji_danshi/
普通の家庭生まれ普通に過ごした × ふーじゃー誕生〜小学時代
1995年、香川県高松市で生まれる。

ごくごく普通の家庭に生まれスクスク育ちます。
小学時代は初恋をしたくらいで、特に書くこともないので、みなさんの大切な時間を無駄にしないためにも割愛。
勉強も部活もダメダメ × ふーじゃー中学時代
地元の進学校に進学。
香川県内では偏差値が1番高い中学校に受験し入学したが、周りのレベルが高く、学力は平均で一学年120人中80位前後。お世辞にも頭がいいとは言えなかった。
当時、特に英語が苦手で、英語は見るだけで吐き気がするくらい嫌いでした。
当時の僕は、学力はいまいちだが、部活もいまいち。
小学校からサッカーをしていたため、中学3年間もサッカー部に所属。
当時のサッカー部も県内でそこそこ強く、僕は2年生後半までベンチを温め続けた。3年生になると能力が開花し、エースナンバーの10番をつけ試合にも出始めたが、そんな栄光も長くは続かず半年後には10番を剥奪。
頭も悪く、部活もパッとしなかったが、唯一人当たりだけはよく3年生の後期では学級委員長を勤めました。←これが唯一の救い
ここまでごくごく普通の学生をしていた僕がどうして急に、留学をすることになったのか。しかもよりによって、反日デモが多発していた中国に。
高校から単身で留学しようと思ったきっかけは、劣等感によって生まれた「ちっぽけなプライドを守る」ためでした。
先程も言った通り、中学では学力も部活もパッとしない人生を送っていた僕は、校内ヒエラルキーで言えば、もちろん1軍ではなく2軍以下。
中学3年生の頃にはみんなと同じように県内の高校受験も考えましたが、2軍以下のグループにいる僕がこのままみんなと同じ高校に進んでも、周りと比べ続け、おそらく殻に篭り続ける人生を歩むだろうと思い、どうせなら誰もが驚き、一目おかれる存在になろうと思い留学を決断。
留学先を中国にした理由は2つ。
- 留学費用が安かったから。
- なんとなく、これからは中国語が必要な時代になるだろうと思ったから。
中国に留学すると決めた僕はそこから1人で留学先の学校を調べ、エージェントに連絡をとり、受験。
当時、中国語は全く喋れなかったが、高校入学前に予備班というクラスに入り3ヶ月間中国語を勉強するということで合格しました。
上海の高校から合格通知を受け取った僕は、祖父母や担任の先生、友達に中学卒業後は中国に留学することを伝えると、案の定全員から大反対されました。
それもそのはず、当時は尖閣諸島問題が起こったばかりで、連日ニュースでも反日デモが放送されるなど、日中関係は最悪。僕が仮に自分の子供であれば絶対に行かせません。当時の僕の思いを尊重してくれた両親には感謝してます。


それでも僕は日本で自分に嘘をつき、殻に篭り続ける人生を送るよりはマシだと思い上海に旅立ちました。
しかし上海に留学してすぐ学校に軟禁されることに。
学校に軟禁されていた × ふーじゃー高校時代 × 上海🇨🇳
当時15歳の僕は、中国語も全く話せず、現地で頼れる人もいないまま単身で上海に乗り込みました。
今考えると勢いって怖いですね笑



僕が初めに入ったクラスは予備班といって半年間、中国語だけを学ぶクラス。
クラスメイトは全員外国人。
入学して2,3ヶ月は、お互い言葉が通じなかったのでサッカーを通じてみんなと仲良くなりました。この時、初めてあんなに嫌いだったサッカーを「今まで続けていてよかった!!」と思いました。そして、改めてスポーツって世界共通言語だと実感。
そして入学して数ヶ月後、、僕が最も恐れていたことが起こりました。
尖閣諸島問題の反日デモが原因で、学校から日本人に対し外出禁止令が出されたのです。
つまり、ここから数ヶ月間、学校の外には出れず学校と寮の往復だけの生活をしろということ。
当時の僕は、学校の寮に住んでいたのだが、その寮が本当に酷く、インターネットが使える時間は1日1時間。電気も毎日22:00になると寮母さんにブレーカーを落とされ、冬は水道管が凍り、お湯が出ないという散々な寮。
結局、僕はこの散々な寮と学校の行き来だけという生活を半年間送ることに。


外出禁止令が解かれた後は、その反動からなのか毎週末友達とブランド品のパチモン(偽物)巡りにハマりました。
当時の上海ではブランド品のパチモンがかなり流通していて、パチモンのランクも下からC、B、A、Sランクとあり、僕たちはSランクのパチモンを探すために、上海の裏路地をひたすら歩き回りました。
時には、防弾扉のある部屋に連れて行かれ、裏から怖いお兄ちゃんが出てきたこともあったが、それはそれで楽しかった。
そんなこんなであっという間に高校時代の3年間が過ぎ、大学は中国国内で3番目に頭のいい上海交通大学という大学に入学できましたが、大学卒業することも想像以上に大変でした。
常に退学の恐怖と戦っていた × ふーじゃー大学時代 × 上海🇨🇳
大学は上海交通大学という大学に進学しました。

この大学、中国国内では有名で、中国国内で3番目に頭がいい大学。
最新の世界大学ランキングでは47位でした。
ちなみに東京大学は23位。
https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2021
上海交通大学に入学できたのはいいものの、卒業までの4年間は常に退学の恐怖と戦い続けました。
それもそのはず、中国の人口13億人もいる中の一握りの天才が集まっていて、彼らと同じ授業を受け、同じテストに合格しないといけない。おまけに全て中国語。

案の定、3年生に進む頃には留学生の半分が退学させられました。
当時の僕は「周りからどう思われようが退学だけは絶対にイヤ!」ただただその一心でした。
プライドを捨て友達に何度も助けてもらい、先生にも何度も頭を下げました。
よくよく考えると、自分の実力で卒業したと言うよりは、校内政治と友達のおかげで4年間なんとか耐えしのいだ感じ。本当に持つべきものは友だと思いました。


そして、退学の危機を何度も乗り越え、大学を卒業した翌日、中央アジアにバックパックに行くことに。

ガイドブックにも載っていない未知の国々 × ふーじゃーバックパック編 × 中央アジア
卒業後は大学の卒業式にも出ず、すぐに中央アジアに向かいました。
僕が歩んだルートはこんな感じ。
中国ウイグル🇨🇳 → カザフスタン🇰🇿 → キルギス🇰🇬 → タジキスタン🇹🇯 → ウズベキスタン🇺🇿

実はこの中央アジア、ガイドブックにもネットにも、ほとんど情報が情報が載っていない未知の国々。
しかも現地ではロシア語か現地語しか伝わらす、英語は「How Much?」すら通じませんでした。
いつも威勢だけはいい僕は、特に何も考えず出発したせいで、中国のウイグルで速攻で足止めを食らう羽目に。
ウイグル自治区は中国政府から今も弾圧を受けているため検問所が非常に多く、ウイグルとカザフスタンの国境では100メートル進むのに6時間もかかりました。
ウイグルからカザフスタンに着くまでに合計35時間もバスに乗っていたため、流石にこの時はお尻が爆発するかと思った。笑
カザフスタンに入ると後は情報が全くないため、現地でひたすら情報集め。
そしてその後無事にキルギス、タジキスタン、ウズベキスタンを約1ヶ月かけて周り切りました。


この約1ヶ月間のバックパックでは、途中で知らない人の結婚式に飛び入り参加させてもらったり、現地の日本語学校で日本語を教えたり、途中で知り合ったウズベキスタン人の女の子に世界遺産のサマルカンドで告白され、翌日に彼女の家族全員が僕に会いに来た話など色々ありました。笑
いっぱい話したいことはあるのですが、ここでは長くなるので割愛させてもらいます。
興味のある人はこちらも是非読んでください!



そして中央アジアから帰国後すぐに、今度は楽園の国、ニュージーランド🇳🇿に向かうことに。
楽園の国 × ふーじゃー留学編 ×ニュージーランド🇳🇿
中央アジアバックパックから2週間後、今まで温め続けてきたビットコインを売り払い、それを軍資金として、どうしても行きたかった国ニュージーランドに留学に行きます。

どうして僕がニュージーランドに行きたかったのかと言うと、高校の頃に世界一周をした先生がいて、その先生が「ニュージーランドが世界で一番最高だった!」と言っていたので、どうしても気になっていました。ただそれだけの理由です。笑
ニュージーランドの地を踏みしめると、そこはまさに楽園でした。
Kiwiの人も親切で自然もいっぱい、街も住みやすく、着いた瞬間大好きになりました。
ちなみにKiwiとはニュージーランド人のこと。
ニュージーランドではたくさん友達もでき満喫しました。
ちなみに、ニュージーランドは世界で1番空気が綺麗な場所と言われているので、PM2.5で7年間犯されていた肺も日に日に浄化されました。( ´∀`)
そんなニュージーランドでは、よく南米の人達と遊んでいたのですが、その人たちと出会い僕の人生観が大きく変わりました。
今までの僕の人生観、描いていた幸せと言うものは、「いい大学を出て、いい会社に就職、そして力や実績を作りキャリアップして行く。社会から認められお金もそこそこ稼ぎたい!」というものでした。
恐らくこう思っている日本人の人も多いのではないでしょうか?
それもそのはず、日本ではそれこそが成功者の証であり、小さい頃からそう教えてこられたからです。
しかし、南米の人達と長い時間一緒に過ごしたことで、この僕の人生観は大きく変わりました。僕が彼らから教わったことは「幸せは地位やお金で計れない、そして幸せは自分で見つけにいくもの」ということ。
南米の人たちはみんな口を揃えてこう言う。「お金があっても、自分が幸せでなければ意味がない。お金があっても、家族と一緒にいれなければ意味がない。自分が幸せでないのに他人を幸せにできない。」
国民性もあるだろうが、確かに南米の人たちはいつもニコニコ笑っていて楽しそうに生きている。
それに比べて日本に住んでいる人たちはどこか暗い。
常に相手の様子を伺い、人間関係を壊さないように気を使う。それは日本人の良いところでもあるが、僕も含め多くの日本人は心の底から笑えている回数がとても少ないように思う。
僕はニュージーランドでの経験を通して、人生は一度きりしかないのだから「幸せ」を追求する生き方をしてみたいと思うようになりました。
そして、ニュージーランドでの留学を終え、僕は約8年ぶりに、日本に帰国。
こんなはずではなかった。 × ふーじゃー社会人編 × 東京🇯🇵
ニュージーランドから帰ると、都内のIT企業に入社。
現在はオウンドメディアのSEO担当者として日々パソコンと向き合っています。
自分が入りたい会社に入社でき、大きな裁量も持してくれ、給料も平均よりは多い方。
しかし何故だろう、生き苦しい。
そしてこのまま会社に勤め続け、日本社会の型にはまってしまう自分がイヤだと思ってしまい、ここでもまた葛藤している。
そして、このままでは「人生死ぬまで青春」できるはずがないと思い、東京にきて2ヶ月後、TOKYO DIVERSITY CLUBというコミュニティを立ち上げました。
このコミュニティは日本に来た外国人に、日本の良さをもっと知ってもらうために、日本語を勉強したい外国人と英語を勉強したい日本人を繋げるためのコミュニティです。
日本を訪れる外国人や日本語を勉強している外国人は、実は現地の日本人と関わる機会はそれ程多くない。これは海外で長年生活してきた僕もそうでした。せっかく海外に来たのだからただ観光して語学を勉強するだけではもったいない!
現地の人と関わっていくことでその国の本質を味わえると僕はそう思っています。

そして2019年7月から、このブログも始めました。
もともと僕の発信力はそれ程強い訳ではないが、僕と同じように「社会に縛られ、自分らしく生きられずに葛藤している」人たちがこのブログを見て、自分を変える一歩を踏み出すきっかけになればいいなと思っています。
そんな人たちのロールモデルになり、1人でも多くの人に「人生死ぬまで青春」してほしい。それが今の僕の夢であり目標です。
幸運なことに日本という国は恵まれていて、失敗しても死ぬことはない。失敗を恐れチャレンジしないことが本当の失敗。
さあ、やってやろうじゃないか。「人生死ぬまで青春」!
こんな僕を応援してくれる人、一緒に頑張りたい人は是非DMください。待ってます。